岡田徹也
岡田徹也
岡田徹也

伝統に生きるプロデューサー

 

五百年の歴史をもつ京都の西陣織。かつて一兆円産業と言われた呉服産業も、今や三千億円の規模になったととも言われている。伝統産業が消え行く危機に瀕しているというのだ。

 

 

『縮小均衡を良しとしていては、小さくなるだけ』

 

西陣のそんな状況を打開し、伝統を着実に伝えていこうと猛烈に努力している人がいる。株式会社盡政(織匠 盡政)の岡田徹也社長(50歳)である。

「私どもは帯専門メーカーですが、呉服業界全体が縮小すれば、当然私どもも小さくならざるを得ないわけです。そこで生き残って行くにはどうしたらいいのだろうと考えたのです。そしてそれは、帯の素材から、手でやれることで格差をつける事ではないかと思いついたわけです」

言い換えれば、原材料仕入れという最初の工程から呉服産業全体の工程までを見直して、どこに、現代の付加価値を設けられるかを考えたわけだ。

ちょうどバブルがはじけたころは、「あかんあかん、もう何しても売れへんわ」という言葉が西陣中で聞かれた。

「私は、そんな西陣の状況を打開する方法のひとつが、格差をつけることではないかと考えたのです。効率を追求し、機械化することで大量生産された結果として、商品は均一化していきました。西陣というのは15工程ぐらいに別れているのですが、その工程をもう一度見直し、今まで以上にもっと「手」にこだわることで格差が付く事はないかと日々考えております」

 

『責任の持てる作品をプロデュースしたい』

 

「西陣でものをつくるということは、自分の感性を生かしてプロデュースするということなんです」

確かに西陣の手織り職人には、糸・箔など原料のよさを引き出す手織りの力加減に至るまで、それぞれが技術を磨いて、作品をプロデュースする、素晴らしい技術があった。そこに西陣の魅力があったはずだ。

「生糸を買い上げて、それを撚糸して、染めを施し、さらに手作業で撚ったり合わせたりすることによって素材を吟味する。その過程の中で糸の発色にも個性が出、風合が生まれ、オリジナリティーが生まれるんです」

西陣にも委託加工による大量生産が増えてきた。ここにものづくりに携わる職人として疑問を感じたのだ。大量生産になると、どうしても「人まかせ」になってしまう。機械での織りは一定の力加減で進められる。当然、手織りとは風合が異なる。西陣が本来持っている技術の追求が足踏みされている。そんなつくり方をしていて、自分は帯が出来上がる最後まで、責任を持てるのだろうか。手織りのよさ、風合にこだわりたい。それが先代が求めていたものなのではないか・・・・・・。

高額品はあっても、高級品がなくなってきているというのも、岡田社長には気がかりだった。

「自分の色、自分のデザイン。素材の吟味から始まりますが、さらにデザインをして、それが図案になって、紋図という織物の設計図にして、どういう織りのあげ方、配色をするかというような全てを、自分の感性でプロデュースする。それがわれわれ織屋の仕事です」

 

『15歳で住み込み奉公に出る』

 

1968(昭和43)年の春、まだ15歳だった岡田徹也は詰襟姿で、河村政夫の経営する河村織物の前に立った。中学校を卒業して、河村織物に住み込み奉公にあがるためだった。

当時日本経済は戦後の荒廃から立ち直り、人々の暮らしが少しずつ豊かになりつつあった頃のこと、進学率が高まり中学卒業で就職する人はほとんどいなくなっていた。ましてや徒弟制度そのままの住み込み奉公をする業種に飛び込むものはさらに少なかった。

しかし、彼はその道を選んだ。

岡田社長は京都・西陣に生まれた。当然のこととして実家は織屋だった。かつては自前でやっていたが、時代の流れで下請けと言える賃機になっていた。

「自分でもより広い技術や感性を身につけ、つくり出す側に回りたい」

遅くまで機織を続ける母の姿を見ながら、幼いころからそう考えていた。

そのためには、奉公しながら技術を体得するのが、当時の西陣ではあたりまえだった。

勤めた河村織物は会社組織にはなっていたものの、河村政夫の個人商店という色彩が濃かった。

うなぎの寝床と表される京都の町屋の建物には、あがりがまちがある。店の主人はいつもそこであぐらをかいて、お得意先が入ってこられた、銀行が来た、仕入れ先が、ウチの職人が・・・・・・と対応を何もかもしている。それを毎日見ていた。

「とりあえず、わしの言うこと、することを全部見とけ。それが勉強や」

行儀作法も言葉使いも、「御飯、いただきます」から「お風呂、ありがとうございました」も、イビキの聞こえる主の部屋に向かっての「おやすみなさい」までも、教え込まれた。

「今、この歳になって、そこに仕事の基本があることが解ってきました」

と懐かしそうに語る岡田社長は、先代の河村政夫を「おやっさん」と呼ぶ。

「おやっさんは、薪割りをする姿まで見せて教えてくれました」

 

 

『先代に織屋として育てられる』

 

岡田社長は、まだ20歳そこそこの頃から、その厳しい先代に何度も海外に行かせてもらったという。

見聞を広めて、西洋と東洋の美の違いやシルクロードの流れを目の当たりにする。しかし最初は、これを見て帯のデザインに結びつくかどうかもわからなかった。が、回を追うにつれ、たとえば遺跡に彫られている古代のデザインを見れば「今すぐに帰って、これを自分で表現したい!」と衝動を感じるようになっていった。

織屋は、それぞれの織屋独自の「目出し」という見本布を持っている。それらも早くから見せてもらい、様々な図案づくりや配色もさせてもらった。

このようにして先代は育ててくれた。

 

『自然に逆らわずつくりあげたお袈裟』

 

延暦寺が1200年祭を迎えたときのことである。300年ほど前につくられた秘宝であるお袈裟の修復を、という話がもちあがった。どこの織屋も手を挙げなかったその話しに、岡田社長は興味津々だった。

織あり、刺し子あり、刺繍あり、染めあり・・・・・・。先代にも「こんなん、できるか!」と言われたが、何とかしてみたい、いや、できると思った。もちろんお袈裟の知識などない。このとき、お袈裟がどういうものかを丁寧かつ熱心に伝えてくれたのが延暦寺金蔵院の小森秀恵さんである。「何も難しいことはない。自然に逆らわなかったらいいんです」と言う言葉に違和感なくうなずけた。

先代に「そんなややこしいこと、もうやめとけ」と何度も言われながらも挑戦を続けた。18ヶ月かけて出来上がった昭和のお袈裟は大変な評価を受けた。このとき、基本がしっかりある中で新しいものにチャレンジすることを学んだという。

寺院関係のことでは、打敷などをつくることもある岡田社長は、これら帯以外のものをつくれたことについて、次のように語っている。

「自分たちが今まで帯についてプロデュースしてきたことが、そのまま生きたんです。いわゆる八寸幅に表現していたことを、もっと広く見た。何も難しく考えることはない。与えられたスペースの中で、どう位置づけがあったらいいのかということは常に考えていることです。それを応用しただけなんです」

お役に立てた。認めてもらえた。岡田社長は今まで学んできたことに自信を深めた。

 

 

『独立-盡政は「人への思い」に尽きる』

 

先代が亡くなって4年後の1993(平成5)年に独立した。「盡政」と命名したのは、小森秀恵さんである。

「岡田さんはやっぱり、河村さん、先代命でしょう。先代に尽くす。そしてこの、政夫さんの政の字を“まこと”ということにも解釈するといい。まことに尽きる気持ちで商売に取り組んでいきなさい」と教わった。独立に際して、河村織物から吉野という若手がついて来てくれた。家内工業とはいえ、他人さんが加わることで、自分がすべきことをより広く深く考えることができた。人を大事にしていこうと思った。吉野もまた、岡田社長と共に身を粉にして夜遅くまで仕事をし、その二人の姿を思春期の息子が見ていた。

「お父さんが、あの、僕も尊敬しているおじいちゃんがやっていた大きな会社から独立して、吉野さんを引き連れて、機が一台もないところから立ち上げている-」

高校を卒業した息子は、織屋の修業を始めた。

織屋の喜びを伝えていきたい

織屋は、思いを込めてつくりあげた帯を得意先の問屋に納める。そこで作品とはお別れである。それがふと通りかかった一流店のショーウインドーにパーンと飾られているのを見た瞬間の感動。さらにそれが売れて、たまたま仕立てのために再び手元に戻ってきたときの喜び。そういう嬉しさを若い人に伝えていきたいというのも岡田社長の願いのひとつである。

「私はね、一度もこの職業をやめたいと思ったことはないんですよ。何もない無の状態から、このデザインを、この糸で、この技で、と発想して、プロデュースして、ひとつの帯に仕上げる。それが商品になって売れた時、つまりはお客さんに満足していただいた時の喜びというのは、もう、かけがえのない、何とも言えないものすごい喜びなんです。

ゆかたが脚光を浴びたり、芭蕉布や宮古上布の肌ざわりが好まれたり-、日本の粋を、日本の文化を求める声は私どもに聞こえてきます。そこによりいいものをお届けしたいし、そのための努力は惜しまない。私はそういう織屋でありたいんです」

そう言って岡田社長は目を輝かせた。